編集委員
ラムサールからの風
ラムサールからの風(22)
2026-08-14
フロンティア理論
山極・市川のタグチームによるタール癌の成功は、ウサギの耳にタールを塗り続ける努力によってもたらされました。ウサギを選んだ理由は、自然発生の癌がないことでした。それが、癌発生まで長期間を要した背景で、「日本人の忍耐」と称賛される一方、「癌か贋か、はたまた頑か」という声もありました。
ウサギの代わりにマウスを使えば、短期間にタール癌生成の可能なことを報告したのは、筒井秀二郎氏で、これによって欧米の化学者は、タールからベンツピレンを代表とする発癌物質を抽出することが出来ました。
ベンツピレンは、ベンゼン環を5個組み合わせた構造で、ベンゼン環の数が少なくても多過ぎても、発癌性はなくなり、形やメチル化の一位置で強度も異なりました。
これに目をつけて、電子理論の立場から化学反応性を比較したのが、フランスのプルマン夫妻で、発癌のK領域理論と称揚されました。。
同じ電子理論と言っても、自由度の高いパイ電子を主役にして化学反応性を説明したのが、福井謙一博士のフロンテイア電理論〈後にノーベル化学賞を受賞〉で、門下の永田はそれを、K領域理論に対抗するものとして提示したのです。
では、ベンツピレンの化学反応性から発癌に至る道筋はどうなるのでしょうか。永田は、DNA二重ラセンの間にベンツピレンが挟み込まれ、塩基対の電荷移動から突然変異を起こすことが、発癌の原因だと考えました。
その仮説を実証する場に、生物物理部が選ばれたのです。
ラムサールからの風(21)
2026-08-12
中原幼稚園
「大腸菌で真実であることは、象でも真実である」とは、ノーベル賞を受賞した分子生物学者、ジャック・モノーの言葉です。ジャコブとモノーが、遺伝子制御の仕組みを分子レベルで明らかにしたことで、癌化の謎も解けるのではないか、との期待が集まっていました。中原所長の思惑も、それなりの根拠があったのです。
しかし、保守色の強い日本の癌学者たちは、楽観論に批判的でした。ヒトのDNAは、大腸菌の650 倍で、クロマチン・タンパクと結合しており、裸のDNAの大腸菌とは訳が違います。病理学者にとって、癌と良性腫瘍の差は明らかで、ウィルスの存在に依存する腫瘍は、癌とは一線を画すものでした。彼等は、中原所長の目指す新しい研究所を、「中原幼稚園」と揶揄していたのです。
果たして勝負はどちらに軍配が上がったでしょうか。
動物細胞の遺伝情報は、大腸菌の場合と異なり、メッセンジャーRNAレベルでの編集が不可欠なことが分かりました。遺伝子のスイッチ・オン・オフには、DNAやクロマチン・タンパクの化粧が決めてになっています。
一方、腫瘍ウィルスの働きは、大腸菌に感染するウィルスそっくりで、細胞DNAの中に潜入して、支配権を乗っ取ろうとするものでした。
癌研究の歴史を今日の目で振り返ると、生命の基礎科学に負う処が大部分です。中原所長のスタンスは、最終的には正しかったと言えるでしょう。
ラムサールからの風(20)
2026-08-10
僥倖
私が、新設の国立がんセンター研究所の研究員に採用されたのは、1963年10月のことです。所属は、生物物理部というユニークな部門で、部長の永田親義氏は量子化学の立場から発癌研究をしている工学博士でした。
国立の癌研究センター設立計画が持ち上がったのは、国民病と言われた結核が、抗生物質と予防法で下火となり、癌死が目立って来た時期と呼応します。
日本では戦前から癌研究が盛んで、1915年の山極・市川によるタール癌の実験的生成は、国際的評価を受けています。癌研究会という財団組織による病院と研究所が業績を上げて来ており、今回の研究所長には、癌研究会から移籍の中原和郎博士が決まりました。
中原所長は、少年時代の昆虫採集が昂じて、研究にのめり込むようになり、一高入試に失敗したのを機に、アメイカに渡ったと言うつわものです。コーネル大学で細胞学を学び、ロックフェラー研究所で癌研究に転じ、国際結婚の夫人を連れて帰国後は、理化学研究所、伝染病研究所、癌研究所で業績を上げ、病理学一辺倒だった日本の癌研究に、生化学の新風を吹き込みました。
当初、小規模な付属研究所を目論んでいた厚生省は、基礎研究を重視し、分子生物学に期待する中原所長の要望を受け、大規模な研究所・設立に同意したのでした。これには、当時、政界にも影響力を持っていた武見太郎・医師会長の後押しがあったそうです。
いくつかの幸運の重なりの結果として、私の癌研究はスタートしたことになります。
ラムサールからの風(19)
2026-08-07
転機
私が、生命論や生命の起源にこだわるのは、理由があります。
医学部に入学したものの、私は医師の道へ進むことに、迷いを抱えていました。
小説家を目指したかったのに、初志を貫徹できなかったこと。解剖学も臨床医学も、丸暗記の材料にしか映らず、失望したこと。父親が食道癌で早逝し、奨学金とアルバイトで食いつないでいたこと。無力な貧乏学生で、厭世気分に苛まれていたのです。
当時は、戦後の自由解放の風潮と、何も無い不自由のギャップの中で、早々と人生に見切りをつける若者が少なくありませんでした。
私は講義をさぼり、家に閉じ籠って、心傷を絵に描いたりしていました。転機になったのは、父が持っていたオパーリンの「生命の起源」を読んだことです。そこには、不安定な環境の重圧下で、自由と独立に向け、必死に努力する生命の営みがありました。自由は与えられるものではなく、少しずつでも闘い勝ち取って行くものだ、と教えられたのです。同じことは、宗教の本からでも得られたかもしれませんが、私の場合は、たまたま自然科学の本だった、ということです。
それからの私は、基礎科学を手掛かりに、少しずつ医学の理解を深めて行きました。時代はちょうど、分子生物学の黎明期で、内科入局。半年後に、理学部留学を経て、がん研究の列車に飛び乗る幸運をつかんだのです。
ラムサールからの風(18)
2026-08-06
命を作る
生命科学の進歩著しい今日、生命を人工合成することは可能でしょうか?
生命体を構成するシステムの材料に関しては、合成可能な段階に来ています。遺伝情報を自在に作成・編集する技術は、商業ベースに到達しており、細胞という屋台骨を支える遺伝子の数は、100前後に絞り込まれています。問題はそこから、タンパク合成系、エネルギー産生系、リン脂質合成系を、どう作り上げて行くか、にあります。それは、ミツバチの女王が単独で、コロニーを築いて行くのに例えられるでしょう。
目指す山の頂上は、はるか遠くにある、と言わなければなりませんが、不可能ではありません。あとはそれを実行に移すだけのモテイベーションと資金調達にあります。
1968-70年、私はウィスコンシン大学に留学中、RNA からDNAへ遺伝情報を転嫁する酵素の発見と、転移RNA遺伝子の全合成を、現場間近で見ています。それは、アメリカという国柄の懐の深さを痛感する出来事でした。月面着陸の成功も、同時期でした。
ヒト遺伝子の全面解読がなされたのは、その後30年のことです。
生命の人工合成が何の役に立つのかと問われれば、「わからない」と答えるしかありませんが、自由に細胞生命を合成する技術が確立すれば、体の老化や障害を修復する道も、容易になる筈です。




